クリスチャン・フェラス(Chiristian Ferras)年表
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1933年6月17日、彼はフランスのル・トゥケ・パリ・プラージュ(フランス北部のパ・ド・カレー県)で産まれ、父の手ほどきでヴァイオリンの勉強を始める。
1941年、ニース音楽院でシャルル・ビステジに学び、1943年に最優秀賞を受賞。
その後、1944年からパリ音楽院でルネ・ベネデッティとジョゼフ・カルヴェに学び。1946年、ヴァイオリンと室内楽で最優秀賞を受賞し、13歳で音楽院を主席で卒業。
同年、1946年にデビューし、その後ジョルジュ・エネスコと共演。
1947年、弱冠14歳でフェデリコ・エリザルデのヴァイオリン協奏曲を英デッカに録音し、レコードデビューを果たす。
1948年のスヘフェニンゲンの音楽祭で開催された国際コンクールのヴァイオリン部門で優勝。さらにはジョルジェ・エネスクにも師事し、ピアノ部門に出場していたピエール・バルビゼに会い、デュオを組んで多くの録音を残すことになるほどの交友関係を築くことになる。
また、翌年の1949年に開かれたロン・ティボー国際音楽コンクールでは一位なしの二位に入賞し、国際的な知名度を獲得する。
1950年には、ジャン・ピエール・ランパル、ジョルジュ・エネスコと共演し、JSバッハ作品の録音に参加。
1951年、オーストラリアの指揮者であるカール・ベームに招かれ、ウィーン・フィルと共演し活動が本格化。日本や南米で演奏旅行を行い、ベルリン・フィルとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を放送局にて録音。
1954年には20歳で巨匠カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルとブラームスのヴァイオリン協奏曲を英デッカに録音し、世界的なヴァイオリニストとなる。
1961年、日本に来日し。演奏は軒並み好評だった。
1964年にはカラヤン指揮ベルリン・フィルとブラームスのヴァイオリン協奏曲を録音。以後、カラヤンとは1966年にかけてバッハ、ベートーヴェン、チャイコフスキー、シベリウスのヴァイオリン協奏曲をドイツ・グラモフォン・レーベルにて多数の録音をする。
1971年4月9日、来日したフェラスは4月21日までの間を東京ー京都で過ごし。日本グラモフォンにて14曲を録音。
1975年、その偉大な功績によりパリ音楽院に表彰される。
しかし、その後はストレスによる飲酒、うつ病による体調不良を理由にコンサートを次々にキャンセル。
1982年3月9日と5月6日。また、同年8月にもコンサートを開き復帰したと思われた。
が、1982年9月14日。パリにある自室のアパートから身を投げ出し、自ら命を絶った。
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ピエール・バルビゼ(Pierre Barbizet)年表
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1922年9月20日、彼はチリの最北部、ペルーとの国境に近い港湾都市アリカで生まれ育つ。
1928年、6歳のピエールはヴァイオリニストの母をきっかけにピアノと出会い、10代の頃にマルセイユ音楽院で音楽を学んだ。
マルセイユ音楽院を卒業した後は引き続きパリ音楽院でピアノを学び、
1944年にピアノ科の首席を獲得し、室内楽、音楽史の首席も獲得。
パリ音楽院を卒業した後は、パリのピガールにあるキャバレーで定期的に演奏した。
1948年にスヘフェニンヘン国際コンクールのグランプリを獲得し、ヴァイオリン部門に出場していたクリスチャン・フェラスと会い、デュオを組んで多くの録音を残すことになるほどの交友関係を築くことになる。
この後は数多くの音楽活動を行い、フェラスとともにデュオを組みレコード活動などをした。
1963年からはマルセイユ音楽院で院長兼ピアノ科教授をつとめることとなり、
1990年、亡くなるまでの26年間を教育者としておくることとなる。