思わぬ形で人生二度目の失恋を経験してしまった

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『失恋とは何なのだろうか』と、いつも僕はポエミーなことを考えて生きている。

 最初に人を好きになったと自覚したのは中学生の頃で、その相手は、友人を失ったときに話を聞いてくれた近所のお姉さんだった。
 近所に住んでいたお姉さんは当時、大学の四年生だったから、中学二年生だった僕とは七つほど年が離れていたと思う。

 今思えばただ単に、つらいときに話を聞いてくれた相手だから依存していただけで、実際にそれが恋だったのかは分からないし、僕は母親のいない中学生だったから、七つほど年の離れたその人に対して、母親に対するような感情を抱いていたのかもしれない(僕の家庭環境最悪だったし)。

 そして残念なことに、僕が中学の三年生に上がる頃には、その人は遠くに引っ越しまって、僕自身も中学を卒業した後に別の街に引っ越してしまったから。
 もう、その人と会える可能性はゼロに近いと言ってもいいだろうと思う。

 もし仮に、中学の時点で僕がケータイを所持しているか、あるいは電話番号の交換でもしていれば、再会できる可能性があったかもしれないけれど。
 重く暗い気持ちで過ごしていた中学二年以降の僕に、そんなことを考える余裕はなかっただろうから、後悔しても仕方がない。

 ただ、なにかひとつ。
『なにかひとつでも、過去の僕の行動が違っていれば』と、空想をつづけてしまうというのも事実なんだ。

 特に、良い意味でも悪い意味でも、強い思い出しかない中学の頃のことは……。

 ……──。

 ──中学の頃を再び思い返して浮かんでくるのは、校長室の前に置かれた、同級生の女の子が書いた血を流した天使の絵だ。
 その絵は暗い僕の人生を支えてくれた特別な絵で、僕はその絵も、その絵を描いた女の子に対しても、心の底からの感謝をしている。

 放課後の掃除場所が偶然、その絵が置かれた校長室の前だったおかげで、その絵に出会えたできたのだけれども。別に、最初からその絵が僕にとっての特別な絵だったわけではなかった。
 暗い出来事が起こるたびに、シンパシーを感じるかのように、だんだんとその絵の存在が大きくなっていって、次第に好意も芽生えるようになっていった。

 今思えば厨二病のように、その絵を見て自分自身に酔っていただけなんだろうけども。感傷に浸れたのも、共感することができたのも、気持ちよく自分自身に酔うことができたのも、その絵が本当に上手な絵だったおかげだ。

 もしもあの絵が中途半端な出来の絵だったのなら、僕は感傷にも、自分に浸ることができなかっただろうし、きっと人生だって続いていなかったから。
 僕はあの絵にも、あの絵を描いた同級生の女の子にも、感謝の気持ちを送りたいと心の底から思うことができる。

 だから、ありがとう。素敵な絵を描いてくれて、本当にありがとう。
 キミの絵が僕の人生の支えだった。

 ──そして最近。
 何気なくその絵を描いた女の子を調べてみようと思って、インターネットの海をかき分けてみたら、奇跡的にその子のことを見つけることができた。

 アカウントには鍵がかかっていたから、その中身を見ることはできなかったし、もともと話をしたことも数回しかなかったから、フォローの申請も送らなかったけれども。
 ツイッターのヘッダーにある子供の写真を見て、その子が結婚をして、幸せな家庭を築いているということが分かってしまった。

 結婚なんて、周りの人たちはいっぱいしてるから、ちょっと考えれば想像できることだったんだけれども。
 その子は僕の中学時代の思い出だったから。時が止まったままだったから。全く思い至ることができなかった。

 でも不思議と、その子が結婚したという事実を知って、僕は凄くさわやかな気分になることができた。
 例えるなら、そう。何かひとつ、憑き物が落ちたような感じだ。

 自分の心の奥底の、本当の気持ちは分からないけれども。
 恐らくきっと、心のどこかで、その子と仲良くなれる思っている部分があったんだろう。 
 だからこうして現実を叩きつけられて、止まった時を動かすことができたから。もうそこに振り返る必要がなくなったから。僕は気持ちよく、これから前に進むことができる。

 多分これが、僕にとってのもうひとつの失恋なのだろう。
 失恋したことではじめて気づけた理想の、気持ちがいい最高の失恋。


 僕がツイッターで設定してるこのヘッダー画像、真ん中が昔の僕で、左が母親で、右がいとこの女の子ね。
 今回した話とは一切関係ないです。ちなみに僕は一人っ子です。