句読点の振り方について、何が正しいのかがイマイチよくわかっていなかった。
インターネットでは句読点が好かれない。だから僕はできる限り句読点を使わない文章を考えてきたのだが。実際、それが正しいのかは微妙だった。
・ 普段よりも多めに振ってみる
上の文章に、普段よりも多めに句読点を振ってみようと思う。
「句読点の振り方については、何が正しいのかが、イマイチよくわかっていなかった。
インターネットでは、句読点が好かれない。だから、僕はできる限り、句読点を使わない文章を考えてきたのだが。実際、それが正しいのかは微妙だった」
・ 句読点が多い方が素早く読める
素早く読めるという点で見れば、句読点が多い文章の方がいいと僕は感じる。
とはいえ、句読点が多すぎるとバカっぽく見えてしまうというデメリットがあるのだ。
極端な例ではあるが、「今日は、パンを、食べた」と「今日はパンを食べた」では確実に知性の違いを感じる。読点を振れば、視覚的には区切りがついて流し読みがしやすくなるだろう。だが、そのせいでテンポの良さと知性のハッタリ。あるいは、他者に与えたい「、」の本来の能力が失われてしまう。
・ 読点は認識から外れやすい
長めの文章を読む場合、読点というのは、無意識の中で霞がちだ。
普段の僕なら「読点というのは無意識の中で霞がちだ」と、読点をひとつ抜いた状態で書くと思う。
「長めの文章を読む場合、読点というのは無意識の中で霞がちだ」①
「長めの文章を読む場合、読点というのは、無意識の中で霞がちだ」②
見やすさで言えば確実に下の方が見やすいし、全体の文章が長めになってくれば無意識のうちに読点は認識できなくなっていくだろう。
おそらく正解となるのは②のほうなのだ。
だが、「読点というのは」「無意識の中で霞がちだ」と分割してしまう場合、本来意図したリズムや意図が崩壊してしまうというデメリットもある。
・ それでも、少しでも読みやすい方がいいのではないだろうか
意図したものが失われることに怯えてきた僕だが、今後は「利他ファースト」の考え方で文章を書いていきたいと思った。
しかし、常に(読みやすい(認識しやすい)という意味での)最適な文章を書くことが正解だとは限らない。場合によっては今まで僕が使ってきた「最小句読点のテンポ」が重要になってくることもあるだろう。特に、短い文章の中で句読点が連発されることには多くの問題がある。
適切なのは「その切り替え」なのだ。
そして、読点の問題については「隠されたもうひとつの」致命的な問題がある。僕はこの問題を誰にも教えるつもりはないが、この記事を真面目に分析すれば、その答えにたどり着くことはできるだろう。隠されたウソを暴け!
・ 生まれてしまった新たな能力
僕は、2つの句読点テクニックを両立する技を「ダブルドットフォルムチェンジ」通称「ダブルDFC」と命名した。
この能力は天才である僕を、またひとつ上のステージに押し上げることだろう。
恐ろしい。自分の才能が恐ろしい。
「片鱗」を見せてしまったな。
キミも、最適な句読点について考えてみてほしい。
この世界は深いッぞ!!!
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